伝説
悠遠の太古、太平洋には「ムー」という大陸が存在した。この大陸は東西8000キロ、南北5000キロにおよぶ広大な陸地で、そこには人口約6400万もの人々が平和に暮らし、現代文明をはるかに上回る高度な文明を築いていた。
このムーを統治していたのは宇宙創造神の地上代理人である賢者の王ラ・ムーである。国民はラ・ムーのもと、優秀な学問と文化、建築、航海の術を発達させていた。そして太陽の象徴を旗印に、世界をその支配下に置いていたという。
しかし今から約1万2000年前、突然悲劇が訪れる。不気味な地鳴りとともに湧き起こった大地震が大陸を襲い、それにともなって発生した大津波にのみ込まれ、わずか一夜にしてすべてが崩壊してしまったのである。(以下、謎解きに続く)
謎解き
日本ではアトランティスと双璧をなすのがムーである。アトランティスはさかのぼっていくと古代ギリシャのプラトンの著書にたどり着くが、ムーは同様にさかのぼるとイギリスのジェームス・チャーチワードの著書にたどり着く。ここではそのチャーチワードの著書をもとにムー実在の可能性を探っていこう。
古文書その1「ナーカル碑文」は実在するのか
まずチャーチワードの著書を読んでみると、その意外な新しさに気がつく。原書のシリーズが出版されたのは1930年前後なのである。まだ100年も経っていない。アトランティスのプラトンの著書が2000年以上前に記されたことを考えれば相当に新しい。
しかしチャーチワードによれば、彼が記したムーの伝説は「ナーカル碑文」と「メキシコの石板」という2種類の古文書をもとにしているという。これらはムーの聖典「聖なる霊感の書」をもとに記されたもので、ムー伝説を知る上での最重要文献という位置づけになるようだ。
それではこの2種類の古文書は、いったいどういった経緯でチャーチワードに伝わったのだろうか。チャーチワードの著書『失われたムー大陸』によると、「ナーカル碑文」の方は、彼がイギリス軍の軍人として1862年にインドに配属されていた頃にさかのぼるという。
当時、チャーチワードがいた土地にはヒンズー教の古い僧院があり、彼は救済活動や古代文字の研究活動などを通じて、その僧院の院主である高僧と個人的に親しくなっていた。
そんなある日のこと。高僧は、古くから伝わる貴重な粘土板が僧院の秘密の穴倉にたくさん眠っていることを打ち明けた。チャーチワードはこの話を聞くと大変興味を示し、破損を防ぐためにも倉から出して保存状態をあらためるべきだと何度も説得を重ねた。しかし高僧は首を縦に振らない。
だがチャーチワードもあきらめない。折にふれては説得を続けた結果、高僧も度重なる説得に折れ、ついに半年後のある晩、秘密の粘土板を眠っていた穴倉から出してくれたという。
それこそが「ナーカル碑文」である。チャーチワードと高僧は2年の歳月をかけてこの碑文を解読し、そこに記されていたムーの歴史を読み取ったとされる。
以上が「ナーカル碑文」にまつわる経緯だ。経緯がわかったところで、問題はこの話がどこまで本当なのか、という点に移る。実は、チャーチワードは碑文が発見されたという僧院の名前や場所を一切明らかにしていない。理由は序文で「僧院の希望による」と簡単に書いているのみだ。
またチャーチワードは著書の中で、「ナーカル碑文」の写真も一切掲載していない。さらに、チャーチワードは大佐だったと主張しているが、イギリス軍の記録には彼に該当するような人物はこれまで見つかっておらず、軍歴や軍人だったという主張についても疑問視されている。
つまり、そもそも経歴も怪しく、僧院の名前や場所もわからず、肝心の「ナーカル碑文」の写真もまったくないという状況なのである。
あるのはチャーチワードの話のみだ。話の内容が大変突飛であることを考えれば、それを支えるだけの強力で客観的な証拠は必要不可欠である。ところが、その客観的な証拠は皆無に等しい。これでは残念ながら信用には値しない。
Photo by James Churchward『The Lost Continent of Mu』(William Edwin Rudge, NY, 1926)
古文書その2「メキシコの石板」
それでは、もうひとつの最重要文書とされる「メキシコの石板」の方はどうだろうか。こちらはアメリカの鉱物学者ウィリアム・ニーベンがメキシコで集めた総数2600点ほどの石板である。チャーチワードは、前述の「ナーカル碑文」を補足する文書を探すために世界を旅していた際、メキシコでこの石板と出会ったのだという。
彼の著書にはその写真(上)が掲載されている。またニーベンも実在の人物であることは確かめられている。そのため「ナーカル碑文」とは違って、「メキシコの石板」については確かに存在する物のようである。
ただし問題は、その石板は実在しても、そこに記されている内容を解読したというチャーチワードの話の信憑性である。実は、「メキシコの石板」からムーの伝説を“解読”できたと主張しているのはチャーチワードただ一人。他には誰もいない。
そもそもニーベンの「メキシコの石板」は正規の考古学的発掘品としては認められていない。つまり実在はするものの、その信憑性には大きな疑問符がつくというのが現状である。
Photo by James Churchward『The Children of Mu』(Ives Washburn, NY, 1931)
古文書その3「トロアノ古写本」
さて以上のように、チャーチワードが最重要文献としてあげる2つの古文書はきわめて怪しいことがわかった。しかし彼が自説の根拠としているのは(最重要ではないものの)他にもある。「トロアノ古写本」と「ラサ記録」だ。チャーチワードによれば、これらにもムーに関する情報が記されているという。
そこで最後にこの2つを取り上げておきたい。まず「トロアノ古写本」は、スペイン人による焼却処分をまぬがれて残った貴重なマヤの古写本のひとつ。これをフランスの神父シャルル・ブラッスールや、医師のオーギュスト・ル・プロンジョンらが独自に“解読”した結果、失われたムー文明の記録が記されていると主張したものである。
ところが後の研究の進展により、彼らの“解読”は誤りだったことが判明している。「トロアノ古写本」に記されていたのは失われたムー文明の記録ではなく、マヤの占星術に関する記録だったのである。ムーはまったく関係がなかった。
古文書その4「ラサ記録」
一方、「ラサ記録」の方は、1912年の『ニューヨーク・アメリカン紙』に載ったパウル・シュリーマンの記事をもとにしたものである。
記事によれば、トロイア遺跡の発掘で有名なハインリッヒ・シュリーマンの孫パウルが、チベットのラサにある寺院で4000年前に記されたという古文書を発見。そこには「トロアノ古写本」の記述と一致する謎の古代文明ムーに関する話が記されていたという。
……だがちょっと待ってほしい。 「トロアノ古写本」の記述と一致? そう、すでに見たように「トロアノ古写本」に記されていたというムーの話は誤りだったことがわかっている。そのためラサの寺院で記述が一致するような古文書が発見されるはずがない。
では記事に載っている話は一体何なのか。実はこの話、読者の失われた古代文明に対する強い関心を利用する目的で書かれたニセ記事だったことが判明している。ジャーナリストがパウル・シュリーマンの名を騙ってデッチ上げたものだったのだ。つまり「ラサ記録」なるものは実在しなかったのである。
さて、こうしてみると、チャーチワードが自説の根拠とした古文書はどれも信憑性の低いものばかりであることがわかる。これでは残念ながら、彼が主張するような超古代文明ムーの実在の可能性もきわめて低いと結論せざるを得ない。
ムーとは、悠遠なる太古に存在した大陸というより、チャーチワードという人物によって創り上げられた、壮大な物語と考えた方が良さそうである。
【参考資料】
- James Churchward『The Lost Continent of Mu』(William Edwin Rudge, NY, 1926)
- James Churchward『The Lost Continent of Mu』(Ives Washburn, NY, 1931)
- James Churchward『The Children of Mu』(Ives Washburn, NY, 1931)
- ジェームス・チャーチワード『失われたムー大陸』(角川春樹事務所、1997年)
- ジェームズ・チャーチワード『ムー大陸の子孫たち』(大陸書房、1986年)
- ジェームス・チャーチワード『ムー帝国の表象(シンボル)』(角川春樹事務所、1997年)
- 荒俣宏・責任編集『ボーダーランド』 (ハルキ・コミュニケーション、1996年9月号)
- E・B・アンドレーエヴァ『失われた大陸』(岩波書店、1963年)
- L. Sprague De Camp『Lost Continents』(Dover 1970)