伝説
日本の最も西に位置する沖縄県の与那国島。この島の新川鼻という断崖の岬からわずか100メートル沖合の海底に、「与那国島の海底遺跡」と呼ばれる神秘の遺跡が眠っている。
海底遺跡の全長は、東西方向に約250メートル、南北方向に約150メートル、高さは26メートル(頂上部の約1メートルは海面から出ることも)。その外観は、まるで巨大な山城かピラミッドのようである。
それもそのはずで、用途はおそらく城か神殿ではないかと考えられている。防御を意識した造りや、宗教的な儀式に使われたとみられるレリーフなどがいくつも発見されているからだ。
新川鼻の沖合は、かつて陸上にあったことがわかっており、人々の往来もしやすかった。造られた年代は、様々な調査から2000~3000年前頃ではないかと考えられている。
ところがその後、突如、急激な地殻変動が起こり、遺跡は海中に没してしまった。
これが人の手によって造られた遺跡だという証拠は、直角に切り取られた階段、大規模なメインテラス、外部からの侵入を阻む城門、周囲を取り囲む石垣、石ころひとつ落ちていない平坦な通路、人の手が加えられたことを示すクサビ跡、石器類など、数多い。
これらはすべて、自然にできたという考えでは説明不可能なものばかりだ。一方、人工物であるという証拠は数多く出されており、その信頼性は揺るぎない。
こうしたことから、与那国島の海底に眠る遺跡を水中文化遺産として登録しようという動きも出ている。遺跡の保護は必要不可欠であり、人類の遺産として後世に残していくべきである。(以下、謎解きに続く)
謎解き
与那国島の海底遺跡は、確かに人工的な遺跡のように見える。とても自然にできたとは思えない。最初に海底遺跡の写真を見た頃の私の感想がまさにそうだった。
しかし、それから10年以上が経ち、詳しく調べられるようになった現在、その考えは大きく変化した。結論から先に述べれば、与那国島の海底遺跡とされるものは、自然にできたものだと考えられる。
なぜそう考えられるのか。具体的には以下の検証結果をご覧いただきたい。
大前提その1:急坂のように傾いている遺跡ポイント
まず遺跡ポイントを論じるうえで、大前提としておさえておきたいのは、遺跡ポイント全体が約10~12度も傾いているという事実だ。
10度というのは、私たちが普段生活している陸上の坂道の勾配でいえば、約17%に相当する。実際にはどれくらいの坂なのか。以下の動画にある坂道の勾配が17%である。
これが100メートル以上も続いているのだから、まさに急坂といっていい。
この傾きは平坦面とされる部分から道とされる部分まで遺跡ポイント全体に及ぶ。これだけ傾いてしまっていては、その上で人が生活するのはきわめて困難である。
もし人工物だとするならば、もとは平坦だったのが、のちに地滑りなどを起こして沈下し、傾いてしまったと考えるほかない。遺跡説の主導的立場にある琉球大学の木村政昭名誉教授によれば、その地滑りが起きたことを示す証拠があるという。
しかし沖縄地方の海底地形や地殻変動について詳しい、琉球大学の中村衛教授に問い合わせたところ、与那国島で地滑りが起きたことを示す証拠などは聞いたことがないとのことだった。
また、琉球大学理学部物質地球科学科で海洋地質学を研究し、実際に何度も現場の海に潜って調べたことがあるという古川雅英教授にも見解を伺ったところ、以下のような回答を得た。
つまり、現状では木村名誉教授の主張を支える根拠はないということである。
大前提その2:遺跡ポイントは岩が削られてできたもの
次にもうひとつ、おさえておきたいことがある。それは遺跡ポイント全体が、石を組み上げていった建造物ではなく、岩が削られてできた地形であるという事実だ。
この違いは、実はかなり大きい。通常、世界中の遺跡などにある多くの建造物は、人間が整形した石を組み上げるようにして造られている。エジプトのピラミッドがわかりやすい例だ。
これに対し、与那国島の遺跡ポイントでは石が組み上げられておらず、もともとあった地層が削られるかたちで存在している。その地層とは、今から約1600万年前に海底で砂や泥が固まった「八重山層群」というもの。
これに「節理」(せつり)と呼ばれる自然の割れ目が入り、波などの影響を受けて削られていったものが、まさしくあの遺跡ポイントだったと考えられている。
この節理というのは直線的に入りやすく、その性質や状況によって、自然の岩をブロック状や板状、ときには多角形の柱状にすることが知られている。
以下は、そういった節理の一例。
これらは、すべて自然のものである。こうした自然が生み出す造形への理解があれば、遺跡ポイントに対する見方も少しは変わってくるのではないだろうか。
個別の人工説の検証
とはいえ、人工説を支える証拠とされるものはたくさんある。ここからは、それらをいくつかピックアップし、個別に検証していきたい。
アーチ門は3つの巨石を組んで造られた?
アーチ門とは、遺跡ポイントの西側にあるトンネル状の岩のことをいう。通常、ここが遺跡ポイントへの「入口」だと紹介されることが多い。その構造は高さ160センチ、幅80センチ、奥行き3メートルほどで、3個の巨石を組んで造られているとされる。
しかし引いた位置から見るとわかるが、左右の巨石とされているものは、もとから存在している地形の岩である。これに、縦、横の節理が入り、縦の部分が剥がれて欠ける。
この欠けたスペースに上から節理によって剥がれ落ちてきた石がはまり、アーチ門はできたと推測される。(実際、アーチ門周辺には落ちてきた石がたくさん見られる)
下の右写真は、縦、横に節理が入った例。真ん中の部分が剥がれて欠けている。遺跡ポイント近くの「サンニヌ台」という沖縄県指定の名勝で見られる。左写真も同じ節理の例。こちらは岐阜県下呂市にある「重箱岩」という奇岩。市指定の天然記念物となっている。
ちなみに群馬県渋川市の鈴ヶ岳にも、「重箱岩」といわれる奇岩がある。こちらは四角に切り取られたようになっている。もしこれが遺跡ポイントにあったら、きっと自然にはできないと言われたのではないだろうか。
ループ道路に落石がないのは人工的な証拠?
アーチ門をくぐり、右手に曲がって進むと、遺跡ポイントの南東側に沿うように「ループ道路」と呼ばれる道のようなものが現れる。もし節理によって上部から石が剥がれ落ちてくるなら、ここにも石が多くあるはずだ。
しかし、ここでは十数メートルほどにわたって落石が見られない。そのため、人の手によって石がどけられた=人工説の証拠になるとされている。
本当だろうか。映像や写真を確認してみると、確かにループ道路では落石がほとんどないように見える。(ただし東側と西側では落石が見られる。)
ところが、このループ道路のすぐ横には次項でも取り上げる石の山が確認できる。さらにループ道路自体が、その石の山の方に向かって傾いており、石の山の下は一段低い窪地になっている。
つまり上からはがれ落ちてきた石は、その窪地にたまりやすいのだ。
また、ちょうどループ道路の上部には「メインテラス」と呼ばれる場所があり、そこは遺跡ポイントの中でも南東への潮の流れが強いことで知られている。
この方向は窪地へ向かうものでもあり、現在より水位が低かった時代には、ループ道路上の石も波や潮の流れの影響を受けやすかったと推測される。
擁壁は石を組んで造られた?
前項で扱った石の山は、木村名誉教授によれば、石を組んで造られた擁壁、もしくは石垣のようにできているという。(「つら」「ひかえ」などの専門用語を使って、伝統的な石組み工法が用いられているかのように説明)
しかし、これは確認してみると明らかに違うことがわかる。下の写真をご覧いただきたい。どう見てもバラバラだ。
実際に潜って遺跡ポイントを調査された神戸大学理学部の原俊雄准教授によれば、これらの石に整形された痕は認められず、積み石によって擁壁を形成していることも確認できなかったという。
ちなみに、この擁壁はイラスト化されており、木村名誉教授の著書によく登場する。以下がそのイラスト。しかしこれには、縦横比、方角、傾斜など、おかしな点が多い。とくに傾斜は30~40度と書かれているにもかかわらず、イラストでは約70度に誇張されている。
実際の擁壁とされているものは70度もない。せいぜい45度だ。しかしこのくらいの角度では、とうてい壁に見えない。そのためイラストでは、それらしく見えるように誇張したのだと思われる。
石どうしもあまりすき間がない石垣のように描かれているが、先に見たように、これも明らかに誇張されている。
人が使うための階段が造られている?
ループ道路の先には、人が上へのぼるれるように階段が造られているという。これはイラストなどでは角がしっかりある、まさに「階段」のように描かれることが多い。
ところが、これも実際の写真を見ると印象がかなり違ってくる。
ご覧のように全然人工的な階段には見えない。しかもこの先には、段差が1メートルほどもある場所まで存在している。
このようなものを、さも計画的に造られた階段であるかのように主張するのは無理があるのではないだろうか。
とはいえ階段のような地形自体は節理によって形成されやすい。メインテラスを含め、階段状の地形は遺跡ポイントの南~南西側に集中している。この場所は陸側(北)の反対に位置し、かつて水位が今より低かった時代には、波の影響を受けやすかった。
つまり節理によって剥がれやすくなった石が、波によって削られていき、南~南西側に特徴的な階段地形を形成したと考えられる。
三角プールは自然にはできない?
三角プールとは、遺跡ポイントの上部に位置する、一辺が十数メートルほどの扇状に削られた地形のことをいう。木村名誉教授などは、ここに水をため、プールとして使っていたのではないかと主張している。
また節理で窪地のようなものはできにくいため、人工的な証拠になるともいう。
しかし三角プールは遺跡ポイントの地形上にあるため、当然ながら傾いている。そして節理も入っている。
よって、この場所も節理によってもろくなったところが波によって削られていったと考えられる。
ちなみにここは節理や傾きがあるため、水をためることはできず、プールとしては使えない。
柱穴に柱を立てていた?
三角プールのすぐ近くには、3つの深い穴があいている。これは、かつて柱を立てていた「柱穴」の跡ではないかという。
しかし、こうした穴は自然でも形成される。「甌穴」(おうけつ、別名ポット・ホール)と呼ばれるものだ。甌穴では、海底などのくぼみに硬い石がとらえられ、波や流れの力によって回転が長い年月繰り返されることで、まるでドリルで掘ったような穴ができる。
前出の神戸大学理学部の原俊雄准教授の調査によれば、3つの穴のうちの2つには、長径が穴の直径に等しいラグビーボール状の石があったという。
また穴の内壁には、石の回転でできたと考えられる線状痕が認められたため、明らかに自然にできたものだと結論している。
太陽石は実用機能を持っていた?
遺跡ポイントの東側の海底には、「太陽石」と名付けられたワンボックスカーほどの巨石が置かれている。ここには台座のようなものがあり、その近くには線のようなものが何本か刻み込まれている。
木村名誉教授によれば、道しるべや時間を示す実用機能を持っていた可能性があるという。
確かに写真で見ると、台座のようなものに見事にのっていて人工的なようにも見える。ところが、実は反対側から見ると、これもまた印象が違ってくる。
台座のように見えたのものは、段差状に削れていった薄い岩の残りだということがわかる。太陽石も、先に紹介した側からだときれいに台座におさまっていたように見えたが、こちら側から見ると、かなりズレていることがわかる。
しかも2000年8月29日に台風12号が過ぎ去ったあとには、波の影響で太陽石は岩場から落ちてしまっている。
もはやこうなると、周囲の他の落石と見分けをつけるのも難しいくらいだ。おそらく太陽石自体は、周囲の岩場から削れた石のひとつが流されてきたものだったか、ミャンマーのゴールデン・ロックのように、周囲の石が節理や風化によって削られていく中で、最後に残った部分だったのかもしれない。
いずれにせよ、人工的なものである可能性はきわめて低い。なお、岩場にあった線のようなものは、次項で扱うように、ウニなどの岩を掘る穿孔性の生物によるものと考えられている。
クサビで穴をあけた痕がある?
遺跡ポイントやその周辺では、岩を割るために使うクサビによって、直線的に並べてあけたと思われる穴の痕がいくつも見つかっているという。
この件については神戸大学の原俊雄准教授が直接調べている。その報告によると、こうした穴はクサビ痕ではなく、まず間違いなくウニなどの穿孔性の生物によってあけられた穴だと考えられるという。
直線的に並んでいるように見えるものについては、穴が掘りやすい節理に沿ったためと解釈できるという。事実、それらの穴に沿って、節理による割れ目が確認されている。
また実際に穴の中にいたウニも別のダイバーが発見している。
石器やレリーフ類は、人工説の決定的証拠?
遺跡ポイント周辺で見つかっているという石器類と称される石は、それだけでは、ただの石片と見分けがつかない。もし石器類を研究している専門家による論文が発表されていれば検討の価値はあるものの、そういった論文は残念ながら出ていない。
また、動物をかたどったレリーフとされるものには、亀、牛、大ワシなどがあるが、どれもよく似ていると言うにはほど遠い。
逆傾斜なら落石はない?
遺跡ポイントの北側は傾斜とは逆方向にあたる。木村名誉教授によれば、節理によって剥がれた石は、傾斜方向には重力によってすべり落ちるものの、逆傾斜方向には落ちにくいとしている。にもかかわらず、その逆傾斜方向でも石は削られているため、人間が手を加えた有力な証拠になるという。
しかし、木村名誉教授は波の影響力というものをまったく考えていない。石は波や風によっても削られ、移動していくことが知られている。
たとえば、1994年8月に台風13号が与那国島に接近した際には、1~6トンクラスの巨石が低所から高所に数メートルにわたって移動している。このときは最大瞬間風速70.2メートルという猛烈な風を記録し、高波も約21メートルに達した。
与那国島では過去数千年の間に、こうした台風の襲来が何度もあったはずで、遺跡ポイントの逆傾斜側も、波や風の力を受けてきたはずだ。そうであれば、逆傾斜側に削られた部分があるのも当然だと考えられる。
サンニヌ台は遺跡だった?
海底遺跡から北東に約2.5キロ離れたところに、「サンニヌ台」と呼ばれる陸地がある。ここの岩石には節理が非常に多く見られ、遺跡ポイントとよく似た地形が形成されている。
木村名誉教授も著書の中で次のように述べている。
確かにサンニヌ台は遺跡ポイントと非常に形が似ているので、これが自然物ならば遺跡ポイントもまた自然物と言われても仕方がない。(『沖縄海底遺跡の謎』P.44)
けれどもサンニヌ台は自然物ではないという。人工的に造られた遺跡であり、遺跡ポイントと同じだと主張する。その証拠となるものには、サンニヌ台に残る炉の痕や、人工的に削られたとみられる加工痕などがあるという。
本当だろうか。炉の痕については、放射性炭素年代測定によって約1500年前という結果が出たとしている。
しかしこの結果に対し、木村名誉教授は別のところで、「後世の人が火を焚いた可能性があるので説得材料にはならない」(『沖縄海底遺跡の謎』P.116)と却下している。
実際、炉の痕とされる場所は、釣り場として親しまれていた場所だという指摘もあり、説得材料としては弱い。
一方、加工痕については、次の場所がわかりやすいという。
これは、画像の親指のところに見える自然の割れ目(節理)からさらに数センチ、人の手によって削られた痕だという。(割れ目は親指のところにしかないらしい)
しかし、この場面の少し前に、割れ目が下まで続いていることを示すシーンがある。
よく見ると割れ目は2本入っていることがわかる。つまり、割れ目がひとつしかないので、そこから数センチ人工的に削られているというのは勘違いで、もともと2本あり、それぞれの割れ目にそって割れた結果が、最初に見た断面ということになる。
自然の造形美、自然遺産としての魅力
さて、以上のように与那国島の海底遺跡とされるものを人工物だと考えるのは難しい。これは考古学や地質学の分野でも、同様の見解になっている。
また、もともと海底の遺跡を専門に扱う「水中考古学」と呼ばれる分野でも、遺跡ポイントを「遺跡」だと考える研究者はいない。
しかし1990年代前半から、専門外の木村政昭名誉教授が遺跡説を強く主張し始めたことにより、残念なことが起きた。
「日本の水中考古学者は、自然石と人工物との区別もつけられない素人である」という悪評が確立してしまったのだという。
もちろん木村名誉教授は水中考古学者ではないし、水中考古学者の中で氏の主張を支持する人もいない。賛否両論あるという状況ですらない。
けれども木村名誉教授らが中心となって、海外の作家などを招いたことにより、与那国島の海底に眠るのは「遺跡」であり、日本の学者がお墨付きを与えているという誤解が広まった。
水中考古学者の岩淵聡文氏によれば、こうした誤解が一因となり、日本の水中考古学は1990年代に大きく停滞してしまったという。
そして現在でも、与那国島の遺跡ポイントは、「日本の水中考古学界全体への打撃を与え続けている負の遺産」となってしまっているともいう。
残念なことである。しかし岩淵氏は、遺跡ポイントの価値を全否定しているわけではない。著書の中では次のように述べている。
この海底自然石群は立派な水中自然遺産であり、(中略)世界的にも珍しい、特異な水中自然遺産ということであれば、それだけで観光資源、あるいはダイビング・ポイントとしては十二分であろう。
『文化遺産の眠る海 水中考古学入門』P.203より
こうした見解は、遺跡ポイントを人工物だとまったく考えていない人たちの間でも、広く見られる。もちろん、私も同じだ。
人が造っていなかったからといって価値がなくなるわけではない。自然によってつくられたものでも、その価値が認められ、世界自然遺産や観光名所になっている所は世界中にある。
与那国島の海底自然石群は、そういった各地の自然遺産や名所と比較しても、まったく引けを取っていない。むしろサンニヌ台と合わせた大規模な節理群は世界有数である。
願わくは、今後は人工説にこだわった「文化遺産」としてではなく、より現実的で見込みのある「自然遺産」として、ぜひ世界にアピールしてほしいものである。
【参考資料】
- 木村政昭『沖縄海底遺跡の謎』(第三文明社、2000年)
- 木村政昭・編著『与那国島海底遺跡・潜水調査記録』(ザ・マサダ、2000年)
- 木村政昭『海底宮殿 沈んだ琉球古墳と“失われたムー大陸”』(実業之日本社、2002年)
- 木村政昭『新説ムー大陸沈没 沖縄海底遺跡はムー文明の遺産か?』(実業之日本社、2006年)
- 木村政昭『邪馬台国は沖縄だった! 卑弥呼と海底遺跡の謎を解く』(第三文明社、2010年)
- 畠山泰英「『人工』か『自然』か 与那国島のミステリー 『海底構造物』は遺跡?」『サイアス』(1999年10月号)
- クォーク編集部・編『海に沈んだ超古代文明』(講談社、2002年)
- 「ハイビジョン 謎の沖縄海底遺跡 -Mysterious Dive-」(日本コロムビア、2002年)
- 木村政昭、新嵩喜八郎、琉球大学海底調査団「与那国島海底の遺跡様地形の調査・研究」『月刊 地球』(海洋出版、2002年2月号)
- 原俊雄「与那国島沖の海底遺跡ポイントについての所見」『月刊 地球』(同上)
- 「与那国島の海底遺跡を考察する」(http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1066277888/560-582)
- 安里嗣淳「与那国島海底遺跡説批判」『史料編集室紀要』(25号、2000-03-16)
- 鈴木淳、塚脇真二「沖縄県与那国島に分布する八重山層群の地質年代と堆積相」『日本地質学会学術大会講演要旨』(1989-04-25)
- 鈴木淑夫『岩石学辞典』(朝倉書店、2005年)
- 加藤祐三、上間賢二、山岡紀子「高波による石灰岩塊の移動―1994年台風13号による与那国島南岸での例」『琉球大学理学部紀要』(1995年3月、59号)
- 貝塚爽平『発達史地形学』(東京大学出版会、1998年)
- 井上たかひこ『水中考古学のABC』(成山堂書店、2012年)
- 岩淵聡文『文化遺産の眠る海 水中考古学入門』(化学同人、2012年)