超常現象の謎解き

CIAが公表したユリ・ゲラーの実験文書の真相

伝説

2017年1月17日、アメリカの諜報機関「CIA」が、1200万ページにも及ぶ機密文書を公式サイトで公開した。その公開された情報の中で大きなニュースとなったのは、世界的に有名な超能力者ユリ・ゲラーに関する実験文書が含まれていたことだ。

ユリ・ゲラー

スプーン曲げでも有名なユリ・ゲラー
(出典:「ユリ・ゲラー公式サイト」http://www.urigeller.com)

文書によれば、実験はCIAとスタンフォード研究所(SRI)が共同で実施したという。その時期は1973年8月4日~11日までの8日間。

スタンフォード研究所は1977年に「SRIインターナショナル」に改称した。

実験は次のようなものだった。まず、ユリ・ゲラーはSRIの建物内に用意された「シールド・ルーム」に隔離される。この部屋には窓がなく、視覚的に遮断されている。また壁も入口の扉も2重になっていて、外部の音は一切聞こえない。さらに部屋全体が電気的にも遮断されていて、外部と無線のやり取りをすることもできないようになっていた。完璧である。

シールド・ルームの様子(CIA文書より)

これに対し、CIAの局員は別室にて、大学用の辞書を無作為に開く。そして開かれたページの中から、また無作為にひとつの単語を選ぶ。局員はこの単語から連想するイメージを絵に描き、ゲラーはその絵をシールド・ルームの中で透視したという。

その結果は驚くべきものだった。たとえば最初に選ばれた単語は「fuse」(ヒューズ、導火線)。この単語から局員が連想して描いたのは「爆竹」の絵である。

最初に透視のターゲットになった爆竹の絵。
右下には「fire cracker」(ファイアー・クラッカー、爆竹の意味)とも書かれている。(CIA文書より)

ゲラーはこれにすぐに反応。「円筒状のものから騒がしい音が聞こえる」と答え、次の2枚の絵を描いた。

1枚目の絵。(CIA文書より)

2枚目の絵。(CIA文書より)

そこには音を出す円筒状のものとして、ドラムが描かれていた。また他の実験で局員が「ぶどうの房」を描いたときには、その姿を完璧に透視してみせた。実際の絵をご覧いただきたい。24個ある房の数まで同じである。

ターゲットの絵。(CIA文書より)

ゲラーが透視した絵。(CIA文書より)

さらに他の実験でもゲラーは透視を次々と成功させていく。

ターゲットになった「ラクダ」の絵。(CIA文書より)

ゲラーは透視して馬の絵を描いた。(CIA文書より)

ターゲットになった「凧」の絵。(CIA文書より)

ゲラーは透視してよく似た絵を描いた。(CIA文書より)

実験は、ときには遠く離れた場所でも行われたが結果は変わらなかった。最終的に8日間で13の描画実験が行われ、ゲラーはそのうち10の実験で成功を収めたという。

この結果を目の当たりにしたCIAは、機密解除された文書の中で次のように結論づけている。

彼は説得力ある明確な方法で、超自然的な知覚能力を示した。

CIAのような世界一の諜報機関が極秘に実験を行い、ユリ・ゲラーの超能力は本物だと認定していたのである。(以下、謎解きに続く)

謎解き

2017年1月に話題となった「CIAの実験文書」と言われるものには、実は大きな誤解がいくつも含まれている。ここでは、その誤解をといていきたい。

誤解その1:実験文書を書いたのはCIAの局員

この件を扱ったほぼすべてのメディアやサイトでは、文書をCIAの局員が書いたと誤解している。しかし実際に文書を書いたのは、ラッセル・ターグというSRIの研究者である。

これは公開された文書の右上を確認すればわかる。

文書に記されているターグの名前(CIA文書より)

右上の「R.Targ」というのがターグの名前。その上の「August 13, 1973」という日付けは、この文書が実験から2日経った1973年8月13日に書かれたものであることを示している。

ターグはSRIの実験において主導的立場にあった人物で、今回のいわゆるリモート・ビューイング(遠隔透視)などの肯定的研究者としても、オカルト業界では昔から有名だった。

もちろん、文書の中で、「彼は説得力ある明確な方法で、超自然的な知覚能力を示した」と結論づけているのはCIA局員ではなく、ターグである。

誤解その2:ターゲットを選択し、絵を描いたのはCIA局員

これも誤解。ラッセル・ターグの著書『マインド・リーチ』によれば、ジーン・メイヨという女性だという。彼女は当時、人類心理学研究所の博士コースにいた研究者の卵で、ターグとユリ・ゲラーの出会いのキッカケをつくった人物である。

ちなみに今回公開された実験文書では、「CIAの局員」という言葉はおろか、「CIA」という単語すら一度も出てこない。

誤解その3:公開された文書には知られていない極秘情報がたくさんあった

そもそも、ここからして誤解。1973年8月にSRIで行われた実験の内容は、1974年に世界的に有名な科学誌『ネイチャー』で発表されている。

論文を書いたのは、実験を主導したラッセル・ターグと、彼の共同研究者だったハロルド・プットオフ

プットオフ(Puthoff)は多くの日本語の文献で「パソフ」と表記されているが、実際に名前を発音している映像を確認すると、海外では「プットオフ」と呼ばれている。よってここでは、こちらの表記で統一する。

彼らは、一般向けにも前出の『マインド・リーチ』という共著を1977年に出しており、その中でも実験の詳しい内容を書いている。また実験で使われたイラストなども同様に全部掲載されている。

そのため今回公表されたCIAの実験文書といわれるものの中で、今まで知られていなかった新情報は何もない。すべて既知のものだった。

なぜ実験の文書をCIAは持っていたのか?

CIAは冷戦時代、旧ソ連が超能力研究を行っているとの情報から、超能力研究に対して興味を持っていた。そして超能力に関する情報を実際に集めていた。

こうした活動は「スターゲイト計画」などへと繋がっていき、超能力研究も盛んに行われるようになる。ただし結果的には実用化できずに失敗した。

今回公表された文書を他のものまで広げて見ると、前出のネイチャー論文や、他の超能力に関する一般の記事、さらにはユリ・ゲラーに批判的なマジシャンのジェイムズ・ランディが書いた記事(ゲラーの元マネージャーのリーク情報記事)なども集めていたことがわかる。

つまりCIAは、超能力に関して肯定・否定を問わず、とりあえず片っ端から情報を集めていたようなのだ。今回の実験文書も、そうした多くの収集情報のうちのひとつだったと考えられる。

欠陥だらけで批判されていた実験

さて、こうした経緯の中でも、実際に実験が行われ、権威ある『ネイチャー』誌にも論文が発表されたことは事実である。

このSRIでの実験については、マジシャンのジェイムズ・ランディと、心理学者のデイヴィッド・マークスリチャード・カマンが調査している。

マークスとカマンは実験が行われたSRIを訪問し、ゲラーが入っていたというシールド・ルームを調べた。すると、発表されていた状況とは大きく異なることがわかった。

シールド・ルームの壁には、コードを通すための8~10センチほどの穴があいていたのだ。さらにその上にはハーフ・ミラーの窓があり、室内には外と会話可能なインターホンまで付いていたという。

ターグは論文の中で、インターホンは中から外へ一方通行の話しかできないと説明していた。しかし実際は、外のインターホンでもボタンを押せば、室外の様子が中へ伝わってしまう仕組みだった。

これでは、とても「シールド・ルーム」などとは呼べない。実際は外部から情報を得る手段はあったことがわかる。

たとえば13の描画実験の中で、最も完璧な結果を出したのは「ぶどうの房」がターゲットのときである。マークスらがこのときの実験の様子をプットオフに聞くと、彼はそのターゲットの絵をシールド・ルームに隣接する部屋の壁に貼っていたと答えたという。

しかしその場所こそ、シールド・ルームの穴から正面に見えるところだった。つまり、なぜゲラーが形だけでなく、房の数まで完璧にコピーできたのかといえば、ターゲットの絵を直接のぞき見して描いたからだと考えられるのだ。

とはいえ、こうしたことが毎回行われていたわけではない。他の実験ではもっと間接的な情報がヒントになった可能性も指摘されている。

たとえばターゲットに関連したキーワードを盗み聞きしたり、絵を描くときのペンの動きから形を推測したりする方法などである。

また、こうした情報をゲラー自身が得にくい場合は、彼のマネージャーを務めていたシピ・シュトラングがサインを送るなどして情報を教えていた可能性も指摘されている。

シピとゲラーは母国のイスラエルにいた時代からの付き合いで、以前から共謀が疑われていた。

2013年にゲラーが来日した際にも、シピはマネージャーを務めていたとされる。もうかれこれ50年近い相棒。

ターグたちは、シピが実験に同行していたことは認めている。だがシピを警戒し、彼に情報を教えないように注意を払っていたという。しかし先述のように、シールド・ルームの情報からして間違いだらけだったことを考えれば、こうしたシピに対する警戒も、どこまでしっかりできていたのか疑問が残る。

ちなみに13の描画実験のうち、成功しなかった3つの実験を担当していたのは、SRIの懐疑的な研究者であるチャールズ・ロバートという心理学者だった。彼のトリック防止策は厳しかったという。

ネイチャー誌の異例の弁明

実は、こうした実験に対する疑問は、論文が載った『ネイチャー』誌でも指摘されていた。それがターグたちの論文とは別に掲載された、編集部と査読者たちによる異例ともいえる弁明記事である。

同じ号に載ったこの記事では、結果的に掲載されたターグたちの論文に対して、次のような批判や疑問点があげられている。

実験のデザインと提示方法が弱く、その正確な方法についての詳細も困惑させるほど曖昧。
こうした領域を研究する研究者たちによって過去に学ばれた教訓を活かしていない。
辞書をランダムに開いてターゲットを選ぶ方法は、浅はかで漠然としている。
このような弱点は、彼らの実験能力の欠如を示している。彼らの書いていないところで、他にミスを犯しているかもしれない。
意識的、もしくは無意識のイカサマに対して導入された様々な予防策が、「不快に感じるほど甘い」。

つまり、実験の論文は権威ある『ネイチャー』には載ったものの、その内容については多くの批判にさらされている、というのが実情である。

ラッセル・ターグのその後

最後は、SRIでのユリ・ゲラーの実験を主導した、ラッセル・ターグのその後について紹介しておきたい。

ターグは、しばらくSRIで様々な研究を続けていた。ところが1982年には、当時、彼に給料を払っていた国防総省から、「研究報告がずさん」だと非難され、給料を止められてしまう。

そこで彼はSRIを辞める前に、SRIで透視実験に参加していた超能力者のキース・ハラリーと、実業家のトニー・ホワイトという人物たちと「デルファイ・アソシエイツ」という会社を立ち上げた。

彼らが最初にはじめた事業は超能力系ゲームの開発だった。ところがこの事業は失敗してしまう。ゲームを売り込んでいた「アタリ」というゲーム会社が、発売前に倒産してしまったのである。この倒産する未来を彼らは透視できなかったようだ。

しかし彼らはめげない。次にはじめたのは、銀の先物市場で透視を活用する事業だった。これは個人や会社に投資のアドバイスをするサイキック・コンサルティング・サービスだという。

彼らは銀の先物市場で当たりを連続して出した。幸先はいい。投資家も飛びついてきた。ところがまぐれ当たりもここまでだった。その後に2回連続で透視を外すと、投資家たちは一斉に手を引いていった。事業が行き詰まった後に待っていたのは、身内同士の非難の応酬である。

ターグはハラリーに失敗の責任を押しつけ、ハラリーはターグに責任を押しつけた。それでも収まらない彼らは、1億5000万円もの損害賠償を求めて互いに裁判をおっぱじめ、泥沼の訴訟合戦を繰り広げた。

もうグダグダ……。ずさんな研究姿勢と、対象とした超能力者に対する見る目の無さが招いた残念な結果かもしれない。しかしこれが、「CIAが本物だと認めた」と勘違いされる文書を書いた人物の、あまり一般には知られていないその後の話なのだった。

【参考資料】

モバイルバージョンを終了